【ローマ人の物語16】国家の父
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イタリアの高校の歴史教科書では、指導者に求められる資質として、次の5つを挙げているそうです。そして、カエサルだけが、このすべてを持っていたと。
・知性では、ローマの初代皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)はどうだったのか。
・説得力
・肉体上の耐久力
・自己制御の能力
・持続する意志
という指摘には、ブログを投稿する身として大いに反省させられました。p151伝えたい、わかってもらいたいという強烈な想いが、文章力を向上させるのである。
成功する人物の近くには、必ず彼を補佐する人物、それも正反対の資質をもった人材が必ずいるものですね。相互補完(=足して2で割って丁度よい)という点では、生涯の伴侶にも同じことがいえるのかもしれません。p152 アグリッパがアウグストゥスの「右腕」ならば、マエケナスは「左腕」であった。
アウグストゥスによる改革について塩野氏が引用したのは、この時代から1500年後の政治思想家マキアヴェッリの言葉だそうです。アウグストゥスの政治手法は、一見すると、全員が譲歩して折り合いをつける「妥協」のようにみえます。しかし、その本質は「あっ、そういうことなら得だな」と民衆に思わせることです。アウグストゥスは妥協したのではなく、決して「帝政」という名を口にすることなく、着実に自分の考える方向に誘導していったのでした。p88 いかなる事業も、それに参加する全員が、内容はそれぞれちがったとしても、いずれも自分にとって利益になると納得しないかぎり成功できないし、その成功を永続させることもできない。
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いま本屋にいくと、ローマ人の物語文庫版の続編(17~20)が平積みになっています。
昨年来、ずっと読み続けてきたローマ人の物語ですが、カエサルの時代からオクタヴィアヌスの時代へ移ったあたりから、どうも興味関心が薄れてきたというのが率直なところです。
その理由は、これまでローマ人の物語を「戦記」として読んでいたからだと思います。
カエサルまでの物語は、どちらかというと外交を含めた対外政策がメインでした。特に戦争(戦術)において、いかに軍隊(兵士)を率いたかというリーダーシップ論だったと思います。ここでのポイントは、他国あるいは他民族を力で押さえ込むのではなく、「寛容」の精神でもってローマに同化させていくやり方でした。
ところが、オクタヴィアヌスの時代になると国内政策がメインになります。帝政のもとで国づくりをいかに進めていくか、行政改革やインフラ整備にどのように取り組んだかが物語の中心です。
昨今の日本のおかれた状況を省みれば、読み方次第で、むしろ後者の方が旬であり、示唆に富んでいて面白いのかもしれません。
そんなことを思いつつ文藝春秋(2005年10月号)を読んでいたら、ちょうど塩野七生さんの一考を見つけました。ローマの歴史をみると、時には流血してまで改革を断行し、国家が危うくなるほどの内紛や内乱を引き起こしたこともあった。けれども、仮に国家が二分するような事態にあっても、あるところまで行くと問題の本質に戻るのだというのです。そのためには何よりも「問題を単純化する」ことが大切だと述べられていました。さらには、問題の単純化ができなければ、百家争鳴はしても改革は頓挫するとあります。
読書の秋、これまでとは少し視点を変えつつ、再びローマ人の物語へ傾倒してみようかと思っています。
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このノーメンクラトールと呼ばれる奴隷の役目ですが、主人に挨拶しようと近づいてくる人たちを見るや、すかさず近寄ってくる相手の名前を主人にささやくことなんだそうです。主人に代わって名前と顔を覚える知的な奴隷なのです。しかも、選挙中ともなれば、名前を呼びかけるだけでなく、その人の家族のこと、商売のこと、関心事など「あなたへのメッセージ」をささやくというから、現代風にいえば「歩くCRM」のような存在だったのでしょう。p143 ローマには昔から、有力者は家を外にする際に、「ノーメンクラトール」と呼ぶ役の奴隷を同伴するのが習いだった。
という一行に端的に表されていました。アウグストゥスによる帝政は、表面的にはあたかも共和政であるかのような印象を人々に与えた巧妙なやり方だったといいます。p146 ローマの帝政とは、選挙つきの帝政なのである。
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天才カエサルの後継者として指名された天才ではないオクタヴィアヌスは、ローマの初代皇帝となります。
スピキオ・アフリカヌス(アフリカを降した者)、ポンペイウス・マーニュス(偉大なるポンペイウス)、デイヴス・カエサル(神君カエサル)など、祖国に対して功績をあげた人に尊称を贈るのがローマ人特有の慣習でした。同じようにオクタヴィアヌスも、ローマの共和政復帰宣言を行なったことを機に、喜びに浮かれた元老院から「アウグストゥス」(神聖で崇敬されるものの意味)の尊称が贈られます。しかし、実はこの「アウグストゥス」という一見すると権力とは無縁にみえる尊称こそ、オクタヴィアヌスが巧妙に考えた帝政への布石だったのでした。p55 ローマ人は、個人でも綽名で呼ぶのが好きな民族だった。
これまでの共和政時代のローマでは、必要に迫られるたびに軍団を編成していましたが、アウグストゥスは安全保障上の必要からローマ史上はじめての常設軍をつくったのでした。国家の目標が「攻略」から「防衛」に転じたからです。しかし常設軍となれば可能なかぎり小さいコストで最大の成果を上げる組織にする必要があります。そこでアウグストゥスは、これでこそ"リストラ"といわしめる軍制改革を断行したのでした。この時代に、すでに「安全保障」という概念があったことは驚きですが、ラテン語ではこれをセクリタスといい、後に英語のセキュリティーの語源になるのだそうです。p80 共和政時代こそ覇権拡大の時期であり、帝政は防衛の時代に変わる。
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塩野氏によるクレオパトラ評です。きびし~い。(^^;
この本の後半は、いわゆるシェークスピアの「アントニーとクレオパトラ」の展開そのものなのですが、映画クレオパトラや映画レジェンド・オブ・エジプトで描かれていた高貴で妖艶な古代エジプトの女王という人物像とも違っていておかしかったです。さらに、映画では悲劇のヒーロー風に描かれていたアントニウスにいたっては、次のように酷評されていました。ナイル河で釣り遊びをしていたアントニウスに対し、クレオパトラがかけた言葉です。
クレオパトラの野心に振り回された男の哀愁が感じられます。今日にもありそうな話ですね。p156 「わたしの偉大このうえもない将軍様。魚を釣ることなどは、この辺りの猟師たちにお任せなさいませ。あなた様が釣るのは、都市であり王国であり大陸なのですから」
クレオパトラの与えるこのプラス・アルファが、アントニウスを酔わせたのである。
酔わない男であったカエサルゆえに意のままにすることに失敗したクレオパトラは、アントニウスに対しては、酔わせることにエネルギーのすべてを集中したのだろう。だが、これは、次席の器でしかない者に、主席もやれるという誤信を植えつけただけであった。
追い詰められたクレオパトラが霊廟にこもった真意について、ここに収められていたプトレマイオスの財宝を使ってオクタヴィアヌスと取引しようと考えたのではないか?という説に対し、塩野氏は、クレオパトラはローマ人の間ではこのように言われていたのを知らなかったのではないかと喝破しています。祖国ローマへの忠誠は、けっして金では買収できないローマ戦士の誇りなのだと。p222 「戦士で富はつくれるが、富では戦士はつくれない」
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その3月15日の出来事にはじまり、カエサルの志がオクタヴィアヌスに受け継がれていく経緯ついて、実に140ページ余りも使いながら、塩野氏による歴史観をふまえた解説が続きます。ここでもカエサル贔屓のトーンは変わりません。先日みたシェークスピア原作の映画ジュリアス・シーザーとは大分違っていた点も興味深かったです。個人的には次の2点について、キケロの証言をはじめとした歴史的考察にもとづいて、丁寧に描き出されているのが見事だと思いました。p19 3月15日と書けば、西欧人ならばそれがカエサル暗殺の日であることは、説明の要もないくらいの常識になっている。西洋史でも屈指の劇的な一日、ということだ。
カエサルの死後、その志をまっとうすることになったのは18歳のオクタヴィアヌスでした。自分を後継者に指名しただけでなく養子にし、必ずしも軍事的才能には恵まれていなかったことを察してアグリッパという優れた兵士を補佐役につけ、カエサルという家名まで継ぐように言い遺してくれた故人への思いこそ、オクタヴィアヌスを奮い立たせ、その後の彼を支え続けた意志の源泉になったのではないかと塩野氏は指摘しています。
カエサルの遺言状が公開されたときの反応は、ローマ市民たちは「オクタヴィアヌス、WHO?」といい、元老院階級の人々は「オクタヴィアヌス、WHY?」だったようです。そんな無名の若者を登用したカエサルの意図は、平時におけるオクタヴィアヌスの統治の才能を見抜いたからだったといわれていますが、カエサルの野望であった「帝政」への移行にあたって、自分の死をも想定した万が一の状況を考えてのリスクマネジメントだったのかもしれません
やがて、キケロさえも出し抜いたオクタヴィアヌスの「偽善者」ぶりによって、アントニウス、レピドゥス、オクタヴィアヌスの第二次三頭政治がはじまり、ローマの寡頭政体は完全に消滅したのでした。p109 ユリウス・カエサルの名を継ぐことは、一億セステルティウスの金の遺贈よりも効力があったのだ。それをわかって遺したカエサルも見事だが、18歳でしかなかったのにカエサルの真意を理解したオクタヴィアヌスも見事である。世界史上屈指の、後継者人事の傑作とさえ思う。
以上 文庫版「ユリウス・カエサル ルビコン以後(下)」より。
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共和政から帝政への移行。これこそがカエサルが越えた真の「ルビコン」だったというように、もはや広大になったローマを治めるためには、新しい統治システムが必要でした。強大化した肉体に適用した内臓を求めるために。
ローマ独自の共和政とは、2人の「執政官」にみられる君主制の利点、「元老院」に体現される貴族制の利点、さらに「市民集会」にみられる民主制の利点を合わせ持った優れた統治システムでした。しかし、強大化したローマでは、このやり方では通用しなくなり、スッラ、キケロ、カエサルの3人は、それぞれのアプローチで現状打破しようと試みたのでした。そして、改革を成し遂げたのはカエサルだけなのでした。p109 人間にとっては、ゼロから起ちあがる場合よりも、それまでは見事に機能していたシステムを変える必要に迫られた場合のほうが、よほどの難事業になる。後者の場合は、何よりもまず自己改革を迫られるからである。自己改革ほど、とくに自らの能力に自信をもつのに慣れてきた人々の自己改革ほど、むずかしいことはない。
スッラ
・処罰者リストによる反対派一掃
・元老院体制の補強
・年功序列制度の実施(個人の台頭を抑止)
キケロ
・ローマ公人の徳の向上
・「武力なき執政官、トーガ姿の軍司令官、文よく武を制す」の啓蒙
カエサル
・「寛容(クレメンティア)」を新秩序のモットーとする
・ユリウス暦の制定、通貨改革
一瞬、鳴かぬなら・・・ホトトギス、の3人を思い出してしまいましたが、少し違いますかね。
以上 文庫版「ユリウス・カエサル ルビコン以後(中)」より。
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「内乱記」のなかで、盟友ポンペイウスの死について「アレクサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」とたった一行、芸術的に表現したカエサルは、内紛のエジプトでクレオパトラを助けます。クレオパトラ物の映画では、図書館炎上のシーンが有名なアレクサンドリア戦役ののち、エジプトはローマの同盟国にもどります。さらにカエサルは、エジプト遠征の帰りに、小アジアで反旗をひるがえしたポントス王ファルナケスとの戦いにも勝利しますが、そのとき元老院あてに送った戦果報告を次の三語ではじめたといいます。
原文のラテン語では、"VENI、VIDE、VICI"という三語ですが、フィリップ・モリス社のタバコ「マールボロー」の箱にも刻まれているそうです。いつも簡潔、明快なカエサル流ですが、"勝利の方程式"といったところでしょうか。現地踏査の労を惜しまず、自ら進んで現場におもむくという意味で、この地にも「来たぞ!」という叫び声が聞こえるようです。また、「見た」には、斥候をつかった調査や、念入りに周辺の地理情報を把握するという意味だけではなく、すでにカエサルにはどう戦うべきかが「見えていた」という意味が込められているように感じます。頭のなかに広がる戦略マップの中で、すでに勝つことを「見た」のであって、実際戦ってみたら当然の帰結として「勝った」のだと淡々と報告しているようです。p19 「来た、見た、勝った」
ローマでの4度に分けての凱旋式の挙行は、ガリア戦役、アレクサンドリア戦役、ポントス王ファルナケスでの戦勝、そしてポンペイウスの残党を追撃した際のヌミディア王ユバに対する戦勝という、4つの勝利を祝うものだったといいます。凱旋式で、このように唱和されたカエサルが、いかに部下たちから愛されていたかがわかるエピソードです。p98 「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」
これではあんまりではないか、とカエサルは抗議したのだが、カエサルと12年間も苦楽をともにしてきたベテラン兵たちは、敬愛する最高司令官の抗議でも聴き容れなかった。
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ポンペイウスを追撃するカエサルが、歩兵47000に対して22000、騎兵7000に対して1000という大幅な劣勢のなかでいかに勝機をつかんでいくのか。ポンペイウス側ではただ一人、カエサルの手のうちを知り尽くしているラビエヌスでさえ思いもつかない秘密兵器を投入しました。
カエサルは、敵の主戦力を騎兵だと考えます。それを非戦力化するために"馬"という動物の本能に目をつけたのです。兎がうずくまっているだけでも立ち止まってしまうのが馬という動物なので、疾駆してくる敵の7000の騎兵の前に、2000の兵士が突然壁となって立ちはだかるという秘密兵器なのでした。p235 敵の主戦力の非戦力化に成功した側が、どの会戦でも勝者になる。
ファルサルスの会戦で、カエサルは、アレクサンダー大王もハンニバルもスキピオもしなかったやり方で勝利します。カエサル自らが、「教科書どおりに対処していたのでは勝てなかった」とガリア戦記に書いているように、彼にとって「軍事」とは「政事」を行うための手段だったようです。p254 「方式」(メソッド)とは、誰が踏襲してもそれなりの成果が得られるものでなくてはならない。駆使する者の才能に左右されたり、その場でしか適用可能でないとなっては、教材にはならないからである。
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カエサルの信念ともいえるのが次の言葉です。1冊のなかで何度も同じ文章が引用されていました。カエサルがキケロにあてて書いた手紙の一節です。
「賽は投げられた!」という名ゼリフとともにルビコン川をこえたカエサルは、元老院派の人々を率いて本国から逃げたポンペイウスを追撃します。しかし、降伏を申し出てきた兵士たちに対しては、捕虜にしたり殺したりすることなく許してしまうのです。「自らの考えに忠実に生きる」という点ではスッラと同じですが、反対派というだけで容赦なく皆殺しにしたスッラとは違い、勝てる会戦でも回避に務め、殺そうと思えば殺せた捕虜さえ釈放するという、いわゆる「敵を許す」という巧みな戦後処理こそカエサルの優れた点でした。p36&p104 わたしが自由にした人々が再びわたしに剣をむけることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている。
誇りをもったローマ人同士の内紛であるからこそ、武力で制するやり方ではなく、相手が降伏するように仕向けるというのがカエサル流の戦い方だったのでしょう。彼こそ、権力で人を動かすのではなく、人を自発的な意思によって動かすことの重要性を知っていたリーダーといえるでしょう。p92 剣を使わずに思慮で勝つのも、総司令官の力量ではないのか。
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カエサルがルビコン川を渡ることを決断したときの言葉で、元老院に対する宣戦布告を意味するあまりにも有名なセリフです。「ローマ人の物語」シリーズでも、ルビコン以前とルビコン以後で巻が分けられており、この出来事がローマ史上重要なターニングポイントとして意味づけられていることがわかります。
ルビコン川はローマの国境であり、軍を率いてこれを越えることは完全な国法違反です。というのも、軍勢を率いる権限をもつのは絶対指揮権(インペリウム)を与えられた属州総督だけであり、属州総督である間は首都の城壁内には入れないのがローマの法であったからです。ポンペイウスが元老院側に取りこまれたことにより、ポンペイウスを討つためにローマ人同士の戦いが始まろうとしていました。元老院主導の少数寡頭政に限界を感じたカエサルが、新しい統治システムを勝ち取るために仕掛けた戦いでもありました。p234 「ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅」そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向い、迷いを振り切るかのように大声で叫んだ。
「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」
兵士たちも、いっせいの雄叫びで応じた。そして、先頭で馬を駆るカエサルにつづいて、一団となってルビコンを渡った。紀元前49年1月12日、カエサル、50歳と6ヶ月の朝であった。
輝かしい戦績をもち、ローマ最高の武人としての名声を浴びるという虚栄心をくすぐられたポンペイウスが、狡猾な元老院に利用されました。政治的野心のないポンペイウスは、危険な存在とはみなされなかったのです。先にクラッススがパルティアで戦死したことで、すでに一角が崩れていた三頭政治による統治システムはこうして崩壊し、カエサルにルビコン川を渡る決意させました。p177 私個人は、先にも述べたように、虚栄心とは他者から良く思われたいという心情であり、野心とは、何かをやり遂げたい意志であると思っている。他者から良く思われたい人には権力は不可欠ではないが、何かをやり遂げたいと思う人には、権力は、ないしはそれをやるに必要な力は不可欠である。ところが、虚栄心はあっても野心のない人を、人々は、無欲の人、と見る。またそれゆえに、危険でない人物、と見る。かつがれるのは、常にこの種の「危険でない人」である。
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小説「ローマ人の物語」と並行しながら、この時代のローマを描いた映画をみると、運命に翻弄された人間ドラマとしてよりいっそう楽しむことがでてきます。不朽の名作といわれる「クレオパトラ」を初めて観ました。エリザベス・テイラー演じるクレオパトラはもちろんのこと、彼女が愛したローマの将軍の心の葛藤に同化し、人間的魅力に惹かれてしまいます。
政敵ポンペイウスを追ってエジプトに上陸したシーザー(カエサル)はクレオパトラと出会います。シーザーはその英知と美貌の虜になり、クレオパトラを妻としてローマに迎え入れます。スフィンクスにのってローマを凱旋行進するクレオパトラの鮮やかで絢爛な映像が印象に残ります。今ではクレオパトラの湯などと象徴される、当時繁栄をきわめたエジプト王朝の高貴で妖艶な暮らしぶりが伝わってきました。そんな女帝から一人の男として愛されたシーザーの威厳にみちた将軍ぶりも光っています。やがてブルータスら元老院派によってシーザーは暗殺されます。悲しみに暮れるクレオパトラはシーザーの股肱の兵だったアントニウスとの再会を約束してローマを離れ、エジプトに帰国します。
3年後、内乱状態のローマでは、シーザーの養子であるオクタヴィアヌス(のちに初代皇帝アウグストゥスとなる)、アントニウス、レピドゥスによる第2次三頭政治が行われていました。3年前の約束を果たし、自分の想いをクレオパトラに告げるアントニウスは、クレオパトラと恋に落ちて骨抜きになってしまいます。妻であったオクタヴィアヌスの姉と離婚したことで、オクタヴィアヌスとの対立が決定的となったアントニウスは、「私が死んだらクレオパトラとともにアレクサンドリアの墓に埋めてほしい」という遺言まで認めます。このことが知れるや、ローマ軍は裏切り者を討つべく、クレオパトラへ宣戦布告したのでした。有名なアクティウムの海戦です。戦いのさなか、アントニウスが戦死したと知らされるやクレオパトラはいち早く敗走します。それをみた司令官アントニウスも、劣勢のなか戦い続ける兵士を残したまま彼女の後を追ってしまうのです。そこにあったのは、闘将としての誇り、ローマ人としてのプライドなど、これまで築いた一切の名誉を捨て、クレオパトラへの愛だけを貫いた一人の男の姿だけでした。
オクタヴィアヌスに攻められ、首都アレクサンドリアの陥落もまもなくという頃、墓にこもったクレオパトラは、アントニウスに自分は死んだと告げさせます。ローマに戻らせようとしたのでしょう。しかし、アントニウスは悲嘆にくれ、自害します。それを知ったクレオパトラも彼を追います。黄金の衣を身にまとい、毒蛇を仕込んだいちじくの壷に手をいれて自らの命を絶つのでした。
以上の出来事が、高校の世界史の教科書では、次のたった3行で記述されています。
やがて東方でプトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを、オクタヴィアヌスがアクティウムの海戦で破り、100年およぶ内乱はようやくおさまった。
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8年間にわたるガリア人との戦いを経て、カエサルは悲願のガリア征服を成し遂げました。
思い返せば、カエサルが執政官に就任した時の初仕事は「情報公開」でした。元老院での審議内容を、フォロ・ロマーノの建物の壁に貼り出したのです。当時では画期的なことでした。反カエサル派のキケロや小カトーが演壇というマスコミを活用したのに対し、カエサルは見事な文章力で対抗したのです。「ガリア戦記」の執筆こそ、市民の支持を手にするためのカエサル流のマスコミ活用だったと。映画「クレオパトラ」では、エジプトの誇り高き女帝クレオパトラが、尊敬の態度で「あなたの書いたガリア戦記読んだわよ。」と囁くシーンがあります。カエサルは、優れた戦術家であるとともに、才能に恵まれた文筆家でした。この後間もなく、ブルータスに暗殺されてしまいます。p146 カエサルが、ポンペイウスをはじめとする彼の同時代人とちがって、元老院よりも市民の支持に賭けたからだ。それならば、支持を求める相手には、判断をくだせるだけの情報が与えられねばならなかった。
団結心の希薄なガリア人を統率した若き総大将について、若き日の自分自身の姿を投影したのでしょう。カエサルはガリア戦記の中で次のように書いています。p96 首都ローマにいる元老院議員にとってのヴェルチンジェトリックスは、他の野蛮な民族と同じ、長髪のガリア人の一人にすぎなかった。しかし、前線にいるカエサルは、そうは見なかった。
敗北は、多くの場合総司令官への信頼を失わせるが、彼の場合は、敗北を喫してからのほうが、彼に寄せられる信頼が強固になった。カエサルが欲しかった人材に違いないのですが、「そのような逸材は敵側にしかもてなかったという例で満ちている」というところが、残酷な運命のめぐり合わせを感じさせます。
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ポンペイウスの軍事力、クラッススの経済力、カエサルの民衆支持という三位一体による三頭政治は、国家ローマの防衛線の確立という公益のために動き出します。周辺の蛮族ガリア人、さらにはライン川を越えたゲルマン人からの侵攻を防衛するための戦いです。いかなるときも最前戦のモチベーションに配慮し、明快かつ首尾一貫した言動で軍隊を率いたカエサルであったからこそ、当時若者のあいだでは、「ガリア戦役」へ参加することが流行にもなったのでしょう。劣勢に立ち戦意を失いかけた軍隊への起死回生の演説、兵糧の確保と補給路をまず第一に考えた戦い方、キケロの弟を隊長に任命した絶妙な人選、傭兵がローマ軍のために戦死したときの同盟部族への思慮...etc、カエサルの行動からは、リーダーたるものの立ち振る舞い方について、多くのヒントを見つけることができます。
簡潔、明晰、洗練されたエレガンス・・・と形容され、その文才を絶賛されるカエサルの「ガリア戦記」の書き出しだそうです。ガリア戦役が、カエサルの冷静かつ俯瞰的な状況分析にもとづいて起こされたものだったことが分かります。p74 「ガリアは、そのすべてをふくめて、三つに分かれる。第一は、ベルガエ人の住む地方、第二は、アクィターニア人の住む地方、第三は、彼らの呼び方ならばケルト、われわれの呼び名ならば、ガリア人が住む地方である」
多神教のローマ人にとって、絶対重視されたのが人間同士の誓約でした。ガリア戦役において、一旦降伏して講和したはずのガリア人の部族が、約束を反故にしてローマ人を襲ったとき、カエサルは情け容赦ない徹底的な報復を行いました。但し、カエサルの時代にあっても、戦争に敗れた相手を抹殺したり奴隷化するのではなく、人質をとったうえで講和を結び、同化させるという伝統的なローマのやり方は踏襲されていました。しかも人質は惨めな境遇であるどころか、有力者の家へのホームステイによって教育を受け、ローマ・シンパになって帰国させられるのでした。いわゆる"フルブライト留学制"です。p152 戦いを起こすこと自体は、カエサルにしてみれば罪ではなかった。しかし、いったん交わした誓約を破り攻めてきたことは、明らかに罪に値したのである。人間であることを放棄した者には、彼にしてみれば、奴隷がふさわしい運命だった。
ローマ人の生き方を象徴している部分だと感じます。ローマ人がギリシア人の知性やエルトリア人の技術を取り入れたように、異民族の文化を尊重し、自分たちより優れたものを積極的に導入することは自由である。しかしその一方で、価値観の異なる民族が共生するために必要なルール、すなわち生きるマナーについては、人間同士で取り交わした約束が絶対であり、法こそ人間の基本的な行動原則であるとしたローマ文明のことを指しているようです。カエサルのもつ一貫性の原点ともいえるでしょう。p192 文化は、各人のものであり、それをどう考えるかは各人の自由である。しかし、文明は、人種も肌の色も風俗習慣も異なる人間同士が共生するに必要なルールは、各人勝手で自由として済ませるわけにはいかない。ゆえに、平易に言えば、生きるマナーに過ぎないことなのに、文明という仰々しい文字を冠せられることになるのである。
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昔、歴史の授業に出てきたはずの懐かしい響きをもつ「三頭政治」。元老院主導によるローマの共和政は、カエサル、ポンペイウス、クラッススという3者の密約による三頭政治によって、大きな転機を迎えようとしていました。
カエサルの凄いところは、ポンペイウスに加えてクラッススに声がけをしたバランス感覚です。ポンペイウスとの2者連合では、圧倒的にポンペイウスの方が強く、力がつり合わないと考えたカエサルは、あまりに借金が大きいがために力関係が逆転してしまった債権者クラッススを同盟に引き入れます。ポンペイウスとて、自らが制覇した東方の統治には経済界の代表であるクラッススの協力が不可欠という事情もありました。こうして、相互におもり関係にある3者の同盟関係をつくったのだといいます。
しかし塩野氏曰く、カエサルは一つのことを一つの目的でやる男ではありません。三頭政治も、単に目先の私益を追求したがための同盟ではありませんでした。その先には、元老院体制を崩すことによる、新しい統治システムの確立という野望があったのです。
その一つとして、グラックス兄弟以降の悲願であった農地法改革にも取り組みます。ホルテンシウス法を持ち出して市民集会決議を強行するのですが、このときの群集の心理をついた立ち回りが見事でした。元老院派の急先鋒である小カトーや論客キケロを退け、演説が必ずしも得意ではなかったポンペイウスを「のせ」て、フォロ・ロマーノの丘に集まった聴衆を大歓声に導きます。市民の熱狂的な支持を受け、流血なしで農地法は成立したのでした。カエサルの人心掌握術の真骨頂が描かれている場面です。
それにしても、自分の妻を寝取ったカエサルと同盟を結び、さらには親子ほどの歳の開きがあるカエサルの娘を妻に迎えたというポンペイウスも只者ではないと感じましたが、一事が万事、このようなやり方で周りの人たちを懐柔し、心酔させることで、地中海を制した凱旋将軍ポンペイウスでさえ丸め込んでしまったカエサルこそ、偉大な人物だったということでしょう。あたかもオセロゲームの駒が、カエサルによって一個ずつひっくり返されていくのを見ているようです。
以上 文庫版「ユリウス・カエサル ルビコン以前(中)」より。
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借金は身を滅ぼすと信じ、返済への強迫観念に苛まれた生真面目なカティリーナは、「借金全額帳消し」を公約して執政官に立候補しました。しかし、そんなことをされてはたまらない元老院の手回しによって阻止されます。不満分子はクーデターを企てますが、これは実行されることなく「カティリーナの陰謀」のまま終わります。やがて捕らえられたレントゥルス以下5人の決起代表者に対する裁判で、カエサルが熱弁をふるいます。小カトー、キケロらに反論され結局5人は死刑となってしまいましたが、文字を追うだけでも突き動かされるほど迫力のあるシーンでした。以下一部引用します。
カエサルの諸言行やエピソードから、当時のローマ人を魅了した英雄像が浮かびあがってきます。なかでも、カネと女に対する常識外れともいえるスケールの大きさには圧倒されました。p178 ・・・わたしは諸君に、歴史を思い起こされることを願う。多くの王も多くの民も、怒りか慈悲に駆られたあげく滅亡した。それよりもわたしが、喜びと誇りをもって思い起こすのは、われわれの祖先たちの所行である。われらが祖先は、感情に流されることなく、公正であるか否かによって諸事に対してきた。・・・
やたらと女にモテたというカエサルですが、それでいて女たちの誰一人からも恨まれなかったといいます。その秘訣?ですが、借金をしてまでのプレゼント攻勢もそうですが、塩野氏は、愛人の存在を公然として振舞ったこと、誰とも決定的な縁切りをしなかったこと、そして妻であれ愛人であれ、女というものを決して傷つけない、無下にはしなかったことだろうと推察しています。p124 カエサルは、モテるために贈物をしたのではなく、喜んでもらいたいがために贈ったのではないか。女とは、モテたいがために贈物をする男と、喜んでもらいたい一念で贈物をする男のちがいを、敏感に察するものである。
確信犯ですね。冒頭のカティリーナと比較したときには気の毒でさえあります。それでも彼が英雄たりえたのは、"大きすぎてつぶせない"ほど借りまくった金を、街道の修復や盛大な剣闘試合の主催、選挙運動に使ったからであり、私腹をこやすためには一切使わなかったからでしょう。国家大改造という大目標に対し、スポンサー(というか最大の債権者)であったクラッススとて、カエサルにはお金を貸し続けるしかなかったといいます。p213 借金が小額であるうちは、それは単なる借金に過ぎず、債務者にとっての保証にはならない。だが、借金が増大すれば事情は変わってくる。多額の借金をもつことは、もはや「保証」を獲得したことと同じになる。多額の借金は、債務者にとっての悩みの種であるよりも、債権者にとっての悩みの種になるからである。
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紀元前100年、ローマ貴族の家に一人の男児が誕生しました。歴史上、英語読みではジュリアス・シーザーと呼ばれるローマ最大の英雄、ガイウス・ユリウス・カエサルです。3つの名前をもつローマ人なので、ユリウス一門に属する、カエサル家の、ガイウスさんということになります。
彼が13歳だったときに、伯母の夫にあたるマリウスが、伯父であるルキウス・ユリウス・カエサルを殺すというショッキングな事件が起ります。スッラの軍事クーデターによってローマを追放されたマリウスが、怨念のかたまりと化してスッラ派の人々を皆殺しにするという復讐にでたのです。カエサルの少年時代に生きた歴史を変えた人物は、双方ともまぎれもない親族だったということです。感受性豊かなこの時期にあって、考える材料というには酷すぎる現実ともいえます。p53 少年の彼に考える材料を与えた人々は、「ユリウス市民権法」を成立させた伯父にかぎらず、その多くが少年の身近に生きる人々であったのだ。
すでに決まっていた婚約を破棄してまで、キンナの娘とカエサルを政略結婚させることに導いた母アウレリアの慧眼のことです。このときカエサル16歳。グラックス兄弟以降、「元老院派」と「民衆派」にニ分していたローマの政治勢力でしたが、キンナの娘を妻に迎えることによって「カエサル=民衆派」をアピールするという、当時の趨勢を読みきった判断でした。p65 カエサルの生涯を彩ることになる勝負師的性向は、この母親からの遺伝であるのかもしれない。
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ローマ人の物語を読んでいて、現代と感覚の違いを感じるものの一つに「奴隷」があります。塩野氏の別書である「ローマ人への20の質問」(文春新書)でも、16番目の質問として、この「奴隷」が取り上げられていますが、奴隷制=悪という常識ができたのはたかだか200年前。古代ローマはそれより2000年前であり、それが時代であったという説明に、何となく納得してしまいます。
ギリシアの哲学者アリストテレスが、「肉体を使うことのみによって仕事をする存在。」と定義すれば、それより200年も前に生きたローマの王セルヴィウス・トゥリウス人は、「自由民と奴隷のちがいは先天的なものによるのではなく運命のちがいにすぎない。」といったそうです。ローマでは解放奴隷という考え方が定着しており、一定の条件のもとで市民権を獲得する道も残されていたのです。奴隷たちは、優れた才能や技能を身に付ける方が、反乱を起こすよりも自由民になる近道と考えた。だからこそ、スパルタクスの乱のような大規模な奴隷の反乱は、ローマにおいてほとんど起らなかったのだという見方は面白いと思いました。
一口に奴隷といっても、熟練技術者として厚遇される者から、それこそ鎖につながれて鉱山などで酷使される奴隷まで、グレードは様々だったようです。そして、ローマで最も高かったというのが「教師奴隷」。ギリシア語や弁論術をローマの良家の子弟に教える家庭教師です。奴隷という身分でありながら、ギリシア語の構文をまちがえたからといって子弟の耳をひっぱっても親は抗議しなかったという逸話があるほど、立場が強かったというから驚きです。またローマの上流階級では、主人の息子とともに、その秘書として奴隷の子をいっしょに家庭教師に学ばせ、教育する慣習があったため、死までを主人とともにする奴隷も少なくなかったといいます。ローマにおける主人と奴隷の関係には、日々の生活をともにすることで生まれた情や絆があったのです。
なお、逆にして「奴隷教師」と呼んだ場合には、意味が変わってしまう可能性があるので注意のこと。
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スッラ体制の崩壊後、ローマを率いてきたのは独裁官ポンペイウスでした。上司にあたるスッラが冗談めかして「マーニュス」(英訳ではザ・グレートの意)を付けて呼んだといわれる若き武将です。まんざらでもなかった様子のポンペイウス君ですが、その才能を如何なく発揮し、若くして凱旋将軍となった働きが、年功序列制にこだわる元老院体制と比較して、実力主義とたとえられています。
ポンペイウスが実力で勝ち取った成果を追ってみると、第一にスペインでのセルトリウス戦役。スッラのブラックリストにのったセルトリウス(第二のハンニバルと呼ばれた)を追い討つべく、特例の絶対指揮権を与えられてスペインに派遣され、これ勝利します。第二に、その実績を引っさげて凱旋式挙行を要求しました。しかし年功制のもとでは資格のないポンペイウスは、「スパルタクスの乱」を平定したものの市民たちの人望に欠けるクラッススと秘密裡に結託して執政官に当選し、名実ともの将軍となります。第三に地中海の海賊一掃作戦の成功があります。捕らえた海賊たちには生業をあたえ住まわせた町を再興します。さらに勢いづくポンペイウスは、ポントス王ミトリダテスの制圧。(第三次ミトリダテス戦役)にも軍事と外交の両面から勝利します。p194 43歳にしてポンペイウスは、「マーニュス」の尊称が、今度こそはまったく皮肉に聞こえない偉業を成しとげたのである。地中海世界全域で、最も有名なローマ人は、いや他民族を入れても最も有名な人物は、紀元前60年代の当時、まちがいなくポンペイウスであったろう。
第三次ミトリダテス戦役での小アジア諸国の姿勢です。パルティア王国(ペルシア)がローマと同盟を結んだことにより、危機感を抱いたアルメニアがローマに寝返ります。これでポントス王ミトリダテスは孤立し、ポンペイウスに滅ぼされることになったのです。ローマにゲームのカードとして使われただけのパルティアとの同盟において、「両国覇権の境界をユーフラテス河とした事が後に災いをよぶことになる」と書かれていた一節が何とも不気味な感じです。p176 オチデント(西欧)での同盟とは、弱い国を味方にして強国に対抗するものだが、オリエントでは、強い国の味方になって弱い国を倒すものなのである。
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執政官となったルキウス・コルネリウス・スッラですが、同盟者戦役後のユリウス市民権法によって生まれた新市民と、元老院を中心とした旧市民の内紛に巻き込まれ、一旦ローマを追われます。名誉を汚されたと感じたスッラは腹心の私兵とともにローマに戻り、武力で首都を制圧します。
基本的には保守派で、この言葉に象徴されるように少数指導制というローマの政治システムを維持しようと努めた優れた政治家だったといえましょう。たとえば次のように形容される言動から、スッラという男の人物像が浮かび上がってきます。p70 ルキウス・コルネリウス・スッラは、「元老院体制」としてもよいローマ特有の共和政という「革袋」を、懸命に修繕しようと努めたのである。あちこちのほころびもただ単に古くなったがゆえであり、丈夫な革きれをあてて補強した革袋の中には、新しい葡萄酒を入れれば、まだ充分に使用可能であると信じていたのだった。
なぜスッラ体制が崩壊したのか。スッラが守ろうとした元老院体制を維持し続けるためには、一個人の力を突出させてはならなかったことを、このような示唆に富んだ表現で塩野氏は説明しています。反スッラ派ではなく、スッラの股肱(ここう)の臣ともいうべきルクルス、クラッスス、そしてポンペイウスなど、門下の俊英たちが、実はスッラ体制崩壊の張本人だったというところが非常に興味深い点でした。p120 システムのもつプラス面は、誰が実施者になってもほどほどの成果が保証されるところにある。反対にマイナス面は、ほどほどの成果しかあげられないようでは敗北につながってしまうような場合、共同体が蒙らざるをえない実害が大きすぎる点にある。
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いろいろな見方ができて読書が楽しい「勝者の混迷」ですが、グラックス兄弟のなしえなかった失業者問題の解決を軍政改革によって実現し、蛮族ゲルマン人の侵入さえも見事に制した、たたき上げの武将ガイウス・マリウス。軍人としての才は抜群であっても政治家としての器量が追いつかず、自らもそれを知ることで劣等感に悩むマリウスの心の動きが個人的には印象に残りました。一連の出来事では、まちがいなく「ローマ市民」がキーワードになっているようです。
ローマ市民にとって義務であった血税が職業になった一方で、同盟国の市民にとっては兵役は義務のままでした。このことが後に起きる「ローマ連合」の発展的解消のトリガーになるとは、この時点ではだれも気づいていなかったようです。p138 執政官マリウスは、執政官の権利である正規軍団の編成を、従来のような徴兵制ではなく、志願兵システムに変えたのである。これによって、ローマの軍役は、一人前の市民にとっての義務ではなく、職業に変わった。
志願制すなわち契約制の軍隊において、職業軍人は戦争がなければ職を失うことになります。兵士たちへの失業保障に対してマリウスの感じていた責務は、法的義務ではなく人情によるものだったといいます。もともとローマ市民でもなく出生の低かったマリウスが、自分に従いてきてくれた兵士たちこそクリエンテスだと考えたのも当然でしょう。従来からローマ人の人間関系に強い影響力を与えてきたといわれ、同盟国のためだったら血も流すという義理人情的精神、いわゆる「パトローネス-クリエンテス関係」こそ潤滑油でした。p166 法律とは、厳正に施行しようとすればするほど人間性との間に摩擦を起こしやすいものだが、それを防ぐ潤滑油の役割を果たすのが、いわゆる義理人情ではないかと考える。法の概念を打ち立てたローマ人だからこそ、潤滑油の重要性も理解できたのではないだろうか。
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ローマ人の物語を読んでいると沢山の人物が登場します。当初はその名前の覚えにくさ、発音のしにくさに当惑してしまい、幾度となくページを読み直したりしてました。もしこの法則が分かっていたなら、前のページに戻ることが少なかったかもしれません。二つの名しかもっていないマリウスの登場にあわせて解説するあたりは、相変わらず憎い演出です。
なるほど!そういうことだったのですね。ローマの英雄たちの名前は、それぞれ次のようになるわけです。p118 自由市民であるローマの男は、通常は三つの名をもっていた。個人名、家門名、家族名、の三つである。~(中略)~そして、この三つの名の後に、尊称というか敬意をこめた綽名というか、そのような形容名がつく場合もあった。
個人名・家門名・家族名[綽名]以上 文庫版「勝者の混迷(上)」より。
ティベリウス・センプローニウス・グラックス
プブリウス・コルネリウス・スキピオ[スキピオ・アフリカヌス※1]
ルキウス・コルネリウス・スッラ
ガイウス・ユリウス・カエサル
※1 ハンニバルを破りアフリカを制した者という意味。
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本書のタイトルである「勝者の迷走」が意味するものとして、敵は外にはなく自らの内にあるということが挙げられます。かつてのように貴族VS平民という政治上の平等を求めた争いではなく、社会正義の公正を求めて富める者VS貧しき者とのあいだに起きた抗争だったようです。この時代を生きたグラックス兄弟に、覇者ローマを維持し続けていくための一つの信念をみました。
名将スキピオの孫にあたるグラックス兄弟(ティベリウス&ガイウス)は高潔な政治家でした。"銀の匙をくわえて生まれてきた"と形容される血筋のよさの一方で、執政官や財務官としてではなく、平民代表のリーダーたる「護民官」として、農地改革をはじめとする改革に取り組みます。これは、無産者に落ちた人々に、農地という資産を与えることで自作農に復帰させ、失業者を救済、社会不安を解消しようとしたものだったようです。富める者と貧しき者の差が広がることによって、兵役免除の無産者が増えたことに対し、直接税の代わりに兵役を課すローマ軍団の根幹をゆさぶる危機と考えていたのです。p59 続けることで成果をあげ、共和政ローマの基盤を確実にしなければ、いずれはローマも滅亡した他国の轍を踏むことになるという危機意識が、孤立化しつつあった彼を支えたのである。
おそらく、元老院の抵抗にも屈することなく、改革を実行しようとしていたグラックス兄弟の信念の源にあたるのではないかと。今日を振り返るにNeetを想起してしまいました。p48 人間が人間らしく生きていくために必要な自分自身に対しての誇りは、福祉では絶対に回復できない。職をとりもどしてやることでしか、回復できないのである。
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ヨーロッパとアジアにまたがる地方を統治していたアレクサンダー大王の没後、この地域はマケドニア、シリア、エジプト、そしてギリシアの都市国家といった国々に分立しました。これらのヘレニズム諸国を支配していたのは、いずれも百人いれば百の意見が並び立つというギリシア人でした。マケドニアの侵攻に対し、支配されることに慣れていない気高いギリシア人は、当時の新興勢力ローマを利用して追っ払おうとします。ギリシア文化にあこがれていたローマ人はギリシアからの要請を快諾し、ローマ対マケドニアの戦いがはじまりました。
マケドニアを壊滅させるほどのローマの快勝でしたが、この戦いを指揮した将軍フラミニウスの宣告を聞いたギリシア人の反応です。そもそもマケドニアにお灸をすえる位にしか考えていなかったローマは、いつものやり方を採用したのです。ハンニバル戦争後も一貫して採用してきた「穏やかな帝国主義」です。帝国主義とはいえ、いわゆる軍事力で他国を押さえつける侵略主義とは少し違うようです。それは、支配・被支配の関係ではなく共存共栄の関係です。p109 ギリシア人には、ほとんど信じられないことであった。他民族であるローマ人が、危機に瀕していたギリシアの独立と自由を救うために、彼らの費用で彼らの血まで流して闘い、しかもその後で全軍を撤退するということが信じられなかったのである。
もはや地中海の覇者となったローマの重鎮スキピオの弱点は、健康状態の悪化にあらわれたといいます。もともと反スキピオ派であったカトーが500タレントの使途不明金を告発し、スキピオは市民集会で裁判にかけられます。これまでローマの穏やかな帝国主義を引っぱってきたスキピオは失脚し、別荘で静かに死んだのと同じ年、偶然にも盟友ハンニバルも毒薬をあおって死んでいます。ローマ軍の一隊長に追い詰められ、身柄の引渡しを求められたのを知って自害したといいます。ちなみに、スキピオの公金横領の疑いは濡れ衣であったことが死後証明されたとのこと。ローマの稀代の英雄の最後にしては何ともやりきれない話です。p136 嫉妬は、隠れて機会をうかがう。機会は、相手に少しでも弱点が見えたときだ。スキャンダルは、絶対に強者を襲わないからである。
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ザマの会戦で若き武将スキピオが率いるローマ軍が完勝しました。しかも、歩兵と騎兵の双方をつかって敵を包囲して全滅させるというハンニバルとまったく同じ戦術で。まさに「ハンニバルがイタリアでやったことと同じことを自分はアフリカでやる!」と公言したスキピオが初志貫徹したわけです。ところで、このザマの会戦には有名な後日談があるそうです。数年後に偶然出会った2人の会話です。p80 十四年前にカンネの平原で起ったのと同じ状態が、ザマの平原で再現された。ただし、相手を変えて。
親友というものを生涯知らずに過ごしたカルタゴの武将ハンニバル、人なつこく開放的で会った人は敵でさえも魅了せずにはおかなかったというスキピオ。対照的な名将2人の共通点として、塩野氏が挙げた優れたリーダーの条件です。スキピオのほうは何となく分かりますが、少しも打ちとけた感じがなく、追い詰められても孤高を崩さないハンニバルに、なぜカルタゴ兵士(しかも多くは傭兵なのに)は最後まで従い続けたのか。その理由を、天才的な才能をもちながら困難を乗りきれないでいる男に対する「優しさ」だとする見方は面白いと思いました。カルタゴの兵士は、寒さにも暑さにも無言で耐え、休息も惜しんで地べたに眠る大将を気遣い、そばを通るときに武器の音だけはさせないようにしたといいます。さしずめ「サスティナブルな人間関係のためには、あえて弱みをみせることが肝要。」といった感じでしょうか。p53 優れたリーダーとは、優秀な才能によって人々を率いていくだけの人間ではない。率いられていく人々に、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。持続する人間関係は、必ず相互関係である。一方的関係では、持続は望めない。
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カンネの戦いでハンニバルに大敗したローマでしたが、貴族と平民が分裂することなく一枚岩になって最後の砦を守ったのでした。逆に、南イタリアの大部分を支配下におくことになったハンニバルは、守ってやるべき同盟国や都市がふえたがために、これまでの攻めから守りへと立場が変わっていきます。一匹しかいない猫のいぬ間にはびこるネズミの戦略をとるローマに翻弄されているようにもみえます。その類稀な才能がゆえに、常に先頭にたって戦うことを運命づけられた武将ハンニバルの弱さともいえましょう。引き続き文庫版「ハンニバル戦記(中巻)」です。
スキピオが現れるまでローマを守ったのは地味ながら個性豊かな4人の司令官でした。はじめは「ぐず男」のちに「イタリアの盾」と呼ばれたファビウスが得意にしたのは持久戦法。ローマの名門貴族クラウディウス家の出身であるマルケルスの積極的な戦いぶりは「イタリアの剣」と呼ばれます。ローマへの愛国心などもたない奴隷たちを訓練し戦力化したグラックス。彼が率いる「奴隷軍団」の活躍はムチではなく忠誠心に基づくものだったといいます。武将としてより外交や行政の才能に恵まれたレヴィヌスの真骨頂は、同盟国との交渉、反対勢力による蜂起の工作といった外交戦に発揮されました。仮にこの場面を映画にするとして、この4人のキャスティングを決められる立場にあったなら、それぞれだれが適任であるか、大いに悩みまた楽しめることでしょう。p150 第二次ポエニ戦役中でも、ローマが最も苦境にあったと思われる紀元前215年から前211年までの四年間、つまり防戦に専念することを強いられた四年間、後方の元老院とともに一糸乱れず、対ハンニバルの最前線に立ちづづけた武将が四人いる。
カルタゴ軍の裏をかく奇襲をまえに、ローマの若き武将スキピオが兵士にむかって演説したといいます。もともとローマきっての名門貴族であるコルネリウス一門の出であるというだけでなく、演壇に立つだけで映えるイケメンな風貌、晴朗な人柄がかもし出す雰囲気には人を惹きつける魅力があったようです。そのことを彼自身が一番良く知ったうえで、この虚言ともいうべき群集への働きかけ。スキピオの場合、もちろん戦闘前の周到な準備を行ったうえでの話だそうですが。p214 兵士たちには、海神ポセイドンが昨夜夢枕に立ち、潟の中の道案内に立ってくれることも伝えた。だから、すべては神にまかせよ、と。
という塩野氏の言及も印象的でした。p209 天才的武将というのは、部下の兵士たちの心をつかむためには、自分の母を神々の一人と姦通させることくらいは朝飯前、という人種でもあるらしい。
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文庫版「ハンニバル戦記(中巻)」で描かれているのは、カルタゴの若き武将ハンニバルによるローマへの復讐です。「古代最高の戦術家」と呼ばれたハンニバルのまえに、こんどはローマが完敗します。カルタゴの(父)ハミルカル-(子)ハンニバル、ローマの(父)コルネリウス-(子)スキピオ、双方指揮官の世代をこえた因縁の対決でもあります。冷血で狡猾なハンニバルですが悪役の魅力が滲み出ています。
ハンニバルの目指した戦略はただ一つ、ローマ連合の鉄の結束にくさびを打ち込み崩壊させることでした。ローマと連盟関係にある諸国を力でねじ伏せるだけでなく、情報取引や金銭授受による懐柔、捕虜にとったローマ市民兵と同盟諸国兵に待遇に差をつけ、ハンニバル側についたほうが得だと思わせる巧みな演出も駆使しています。どこで戦えば、同盟国の離反にもっとも効果が挙がるかという計算までされています。戦いの流れをつくり、戦場において戦力以上のパフォーマンスを発揮するために、自分たちが優位になるように舞台をととのえる才能に秀でていたといえましょう。75万もの動員力をもっていたローマに2万6千で攻め入ったハンニバルが何よりも重視したのが情報収集と情報操作でした。そのうえでハンニバルのとった戦術は、包囲して全滅させるという作戦です。戦闘ではなく殺戮といえるほど凄まじいものだったようです。p118 ローマの崩壊は「ローマ連合」の崩壊によってしか実現しないと信ずるハンニバルは、今の時点での首都攻撃は時期尚早であると答えたのだ。
象を率いての過酷なアルプス越えのあと、ハンニバルは指揮官として疲労困ぱいした軍隊の士気をいかに高めたのか。ローマのコルネリウスが、「われわれには輝かしい戦績がある。相手は敗者の残党だ。新たなる敵ではない。われわれの国土を、われわれ一人一人の家族を守るために戦おう!」と宣言したのに対し、ハンニバルのやり方は、捕虜にしたガリア人同志を勝った方を開放するという条件で決闘させ、その闘いの様子を兵士たちに見物させたのです。そして、「今観たことは見世物ではなく、おまえたちの現状を映し出した鏡なのだ。勝者になればローマ人の所有しているものはすべておまえたちのもになり、土地や金貨、市民権など望むものを与えよう!」と言い放ちます。ローマのやり方が名誉や愛国心に訴えかける理想主義だったとすれば、ハンニバルのやり方は、勝つか負けるか、生きるか死ぬかを強烈に意識させ、勝ったあとの具体的なイメージをみせる現実主義だったともいえそうです。p52 カルタゴ軍の宿営地でも、ハンニバルが兵たちを集め、彼らの士気を鼓舞する策に出ていた。ただし、カルタゴの若者は、ローマの名門中の名門貴族のコルネリウスとは、ちがうやり方をした。
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前回につづき文庫版「ハンニバル戦記(上巻)」です。第1次ポエニ戦役後、シチリア全域に領土を広げたローマはいかにして異民族を統治したのか。そこには「統治システム」というキーワードがあります。
先週のNHKスペシャル「ローマ帝国」でもこのテーマが取り上げられていました。叙事詩のような塩野氏に比べると駆け足の展開で内容が浅いかな、という感じは否めませんでしたが、被征服民には武力で制圧されたという心情がなく、むしろローマ帝国の一員になったことを市民が誇りに感じていたという解説が印象深かったです。このことからも、人心をも掌握する統治システムだったといえましょう。
その一つとして、盟主ローマは各都市に対し、実情に合わせてそれぞれ「ムニチピア」(諸部族)、「コローニア」(植民地)、「ソーチ」(同盟国)のような名を与え、統治関係を樹立しました。これらのケース・バイ・ケースの関係は、あくまでも「区別」であって「差別」ではなかったといいます。そしてこれらの都市には、年貢や租税を義務づけるのではなく兵力の提供を求めたという点が、ローマに秩序と安定をもたらした統治システムだといわれる所以でした。アッピア街道をはじめとする各都市を結ぶ軍事道路の建設について、p104 とはいえ、異民族統治は誰にとってもむずかしい。ローマ人は、冷静に現実を見きわめた末に、シチリアの統治に適したシステムをつくりあげた。
というところを読んだ時、今日の情報化社会にたとえるならば、拡張性をもった柔軟な分散型システムがネットワークでつながっていくというイメージが思い浮かびました。拡張性があるからどんどん広がっていく、そして実情に合わせてカスタマイズも許容する、しかし公開されているルール(規格)にはきちんと従うことを求め、守らなければ厳しい制裁を加える、というような統治ではなかったかと想像します。なんと今から2000年以上も前の話です。p109 ローマ人は、今の言葉でいう「インフラ整備」の重要さに注目した、最初の民族ではなかったかと思う。
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文庫版「ハンニバル戦記(上巻)」です。長靴のつま先に浮かぶシチリア島の完全制覇をめぐってのローマとカルタゴの戦いである第1次ポエニ戦役が描かれています。当時最強の海軍力を誇ったカルタゴを、なんとローマ軍が打ち負かしてしまうのです。そこには海上戦を陸上戦に変えた「カラス」のアイデアや、全権を委ねられた将軍(執政官)の戦い方など、ローマ人の英知を垣間みることができます。
近代戦では「戦車」にあたるカルタゴ軍の象を制し、嵐による海難事故という辛い経験をしながらも、シチリア戦線打開のために策を練り、200隻の軍船を新造してあえて海戦を挑んでいったのです。p69 象の恐怖を克服したローマ人は、海への恐怖も忘れつつあった。
敵国カルタゴの将軍が、戦いに敗れて極刑に処されるのとは対照的に、ローマの敗将は罰金刑どまりというのが意外でした。失敗を責めることよりも、次への教訓とするという、戦争に対するローマ人の考え方がよく表れている部分だと思います。どこかの組織のように、経営陣が引責辞任することですべてが済んでしまう訳ではないので、逆にある意味では厳しさが求められているといえましょう。また、軍の総司令官である執政官に対し、いったん任務を与えて送り出した後は、元老院でさえ何一つ司令を与えないし口出しもしないという決まりも、この時代にして、すでに権限委譲(エンパワメント)が根づいていたとするなら驚きです。新しいアイデアやチャレンジを是とする考え方が、システムとしても機能していたということでしょうか。p63 敵方の捕虜になった者や事故の責任者に再び指揮をゆだねるのは、名誉挽回の機会を与えてやろうという温情ではない、失策を犯したのだから、学んだにもちがいない、というのであったというから面白い。
23年もかかってようやく講和条約を結び、ひとまずはシチリアからカルタゴを退けることに成功したローマでした。
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文庫版「ローマは一日にして成らず(上・下巻)」では、紀元前753年にロムロスによって建国されて以来、王政から共和政に移行し、いくつかの戦いを経てイタリア半島を統一するまでの500年間が描かれています。
そのきっかけとなったのがケルト族の来襲。それまで貴族派と平民派に二分していた内政のもろさが露呈した結果であったがゆえに、破壊されたローマの再建は、ハード面の整備と並行してソフト面、すなわち政治システムの改革に至る。ローマ史上画期的とされるリキニウス法」は、選挙で選ばれる役職を貴族と平民でに階級別に差別することなく全面開放したのであった。さらに、要職経験者であれば退任後に元老院議員になれる権利(元老院の開放)を与えたこととあわせて寡頭政体による統治システムを確立。ローマにおける少数の船頭は血を問われることなく、常に新しい血が導入されるという「抱き込み方式」が有効に機能し続けることになる。この方式は、内政ばかりではなく外交政策にも取り入れられることになる。幾度の戦争に勝利したローマは、敗れた国を隷属化するのではなく、完全なローマ市民権を与えて共同経営者にする形で、ローマ連合をイタリア半島に拡大していった。p115 ローマ人には、敗北からは必ず何かを学び、それをもとに既成の概念にとらわれないやり方によって自分自身を改良し、そのことによって再び起ちあがる性向があった。
人間を律するより人間を守護する"宗教"、いいとこどりをした"政治システム"、他民族の敗者さえも"同化"する生き方、をローマ興隆の理由として挙げた3人のギリシア人の史観を引用しながら、その共通点を「開放性」というキーワードで括るところはさすが!。オープンであることが結果的に優位をもたらすという考え方には、今日でも活かせる本質的なヒントがつまっている気がします。p208 知力ではギリシア人に劣り、体力ではケルト(ガリア)やゲルマン人に劣り、技術力ではエルトリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣っていたローマ人が、これらの民族に優れていた点は、何よりもまず、彼らのもっていた開放的な性向にあったのではないだろうか。
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王政から共和政への移行にあたって、お手本をみつけに当時絶頂期にあったアテネとスパルタを視察したローマ人3人組。だが結論としてアテネのまねもスパルタのまねもしなかった。自由と秩序を両立させていたのは傑出した一人のリーダー(ペリクレス)の資質であることを見抜き、そこにシステムとしての弱点をみたのではないかと推察される。では3人組が帰国後、スパルタ式(秩序重視)でもなくアテネ式(自由重視)でもない、いいとこどりの新たな政体が生まれたのかといえばそうではない。(1)農牧民族であるローマ人の保守的な性向、(2)パワーをもったローマ貴族の存在、(3)寡頭政(少数指導政)で善しとする平民の存在、という3つの要因によって、貴族対平民の内紛が、ケルト族来襲まで続くのである。当初のローマ共和政とは、「王」を「2人の執政官」に代えただけのものであった。p21 衰退期に入った国を訪れ、そこに示される欠陥を反面教師とするのは、誰にでもできることである。だが、絶頂期にある国を視察して、その国のまねをしないのは、常人の技ではない。
アテネの視察を描いた前半ページの部分で、「模倣しなかったということも、立派に影響を受けたことになるのではないか」という塩野氏のローマ人に対する見方が伏線になっているようです。p74 ローマ人というのは、表面の現象だけ見る人からは模倣の民と軽蔑されるくらいに、他民族から学ぶことが多かった民族であった。
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王政から共和政への移行は、ブルータスによって種がまかれ、プブリコラ(執政官ヴァレリウスの綽名)によって根づいたとされています。人間の行動原則を「法律」に求めたローマ人は、成文法をつくるために当時の先進的な法治国家であるギリシアに調査団を派遣しています。代表的ポリスであるアテネでみたものは、国の最高機関とされた市民集会、自浄システムとしての「陶片追放」制度でしたが、それとは対照的に、スパルタは軍事国家としての生き方を選んでいました。p164 いずれにしてもこの時期、世界史上ではじめて、一般市民が国政に直接に参加できる政体が誕生したのである。後世はこれを、「直接民主政」と呼ぶ。市民の一人一人が、権力の行使とダイレクトにつながったわけだ。
この部分もそうですが、物語を読んでいて時折ぐさっと突き刺すような塩野氏の洞察が入るのが楽しみです。スパルタでの改革を例示しての指摘ですが、××改革流行りの現代にも通じる指南とも受け取れました。ペルシア戦役では、経済力のアテネと軍事力のスパルタという、生き方が相反するギリシアの両雄が同盟して戦うというクライマックスが描かれています。戦争は、それがどう遂行され戦後の処理がどのようになされたかを追うことによって、当事者である民族の性格が実によくわかるようにできている。(p177)の部分とあわせて、少しだけわが国の行方に思いをめぐらせた次第です。p172 改革とは、かくも怖ろしいものなのである。失敗すれば、その民族の命取りになるのは当然だが、成功しても、その民族の性格を決し、それによってその民族の将来まで方向づけてしまうからである。軽率に考えてよいたぐいのものではない。
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青の線は「まあ大事なところ」に、赤の線は「すごく大事なところ」に、緑の線は「おもしろいと感じたところ」に引くという3色ボールペンの方法で、ローマ人の物語を読んだらどうなるか。そんな思いつきから1巻から読みはじめることにしました。至極乱暴であるのは承知で、今後は読んだ区切りの中で、赤を1箇所、緑を1箇所というペースで引用していけたらと思います。
戦争で打ち負かした相手を奴隷にするのではなく、市民としてローマに住まわせることで統治し、共生するという考え方は、多民族国家であるローマの礎となっているようです。p58 敗者でさえも自分たちに同化させるこのやり方くらい、ローマの強大化に寄与したことはない。
必要なときに必要な場所に必要な人材が現れたということですね。それは単なる結果論としてではなく、ローマ建国の歴史において七人の王が果たしたそれぞれの役割、功績を塩野氏なりに意味づけているからこそ、そういう表現になるのでしょう。 一代 ロムルス:落城したトロイから逃げてのびてローマを建国。立地にみる卓越した先見性。 二代 ヌマ:法制化と習慣の改善によるローマの内部充実。 三代 トゥルス・ホスティリウス:アルバへの攻勢と軍事的栄光。約束破りや裏切り行為は容赦しない。 四代 アンクス・マルキウス:橋梁や塩田事業によるインフラ整備。 五代 タルクィニウス・プリスコ:エルトリアからの移住者。ローマの都市化によって、従来農耕民族であったローマ人を技術の力に目覚めさせた。 六代 セルヴィウス・トゥリウス:タルクィニウスが実子に迎いいれたエルトリアの少年。軍制の改革。 七代 タルクィニウス:息子のスキャンダルで失脚。ローマの王政が終わる。 どうも外国人の名前は舌をかみそうで苦手です。p110 ローマの七人の王たちの歴史は、少々出来すぎと思うくらいに、適時適材適所の原則がまっとうされた歴史であった。
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新潮文庫の「ローマ人の物語」シリーズ全10数巻を読破したいと思ってます。実はこのシリーズの3,4,5巻にあたるハンニバル戦記(上・中・下)は、昨年入院した際、イタリア好きの職場の同僚が差し入れてくれた本なのです。その時はじっくり大作を読む気力もなく、さらっと拾い読みしただけで本棚に飾っていました。
昨今、この夏の猛暑が懐かしいとさえ感じる気候となり、読書でもしようかなと思ってあらためて手にとってみたのがこの本。こんな面白い本だったっけ?というのが正直な感想。やはり心身ともだいぶダメージを受けていたんだなと思います。ブックオフを徘徊していたら、ちょうど「ローマは1日にして成らず」の1巻を見かけたこともグッドタイミングでした。気合をいれて読むような本ではないですが、私の中ではこの秋、達成感が得られそうなテーマの一つです。
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